2009年10月08日
何でウインブルドン その2
決心して修行の旅に出る決心をし、向かったのは名古屋のロングウッドテニスクラブ。
ロングウッドテニスクラブには私の師匠の大島伸洋氏がいて、そこでまずコーチの基本と心構えを学ぼうと思ったのです。
ちなみにそのときにお世話になったロングウッドスポーツの川本社長(現 相談役)には今も引き続きお世話になっております。
大島氏、川本氏このお2人とも感謝しても感謝しきれない先輩のお2人です。
名古屋で私は一般スクールのコーチ、ジュニア選手のコーチ、名古屋高校トレーナー、愛工大名電野球部(イチロー、工藤の出身校)のトレーナーをやらせていただき様々な経験をさせていただきました。
このとき大島氏のところには現在活躍中の井上雅(現 椙山女子)が小学5年生でいたり、名古屋高校には成瀬(現在選手として活躍中)などがいて本当に色々勉強になりました。
このときに私が学んだことは数え切れませんが、その中でも3つ挙げると、
①「選手を育てられるコーチは愛情深く、技術と経験が必要であり、必要なときに必要な物が取り出せる引き出しがなくてはならない」ということ。
また、②「選手が小学生など小さい頃は親御さんの熱意が選手を育てる」ということ。
③「勝負の世界には必ずしも決まった正解などない」ということ。
この3つでした。
そのなかでも②の「選手が小学生など小さい頃は親御さんの熱意が選手を育てる」は、いままで運動能力ばかり気にしていた私にとって衝撃でした。
選手が小さい頃は親御さんが喜ぶように頑張る、ただし自立するタイミングが狂うと大変なことになるという諸刃の剣であると言うこと。
この気付きはこれからも私が選手を育てる(現在は休止中ですが)上で最も大切な育成方針の一つであります。
③「勝負の世界には必ずしも決まった正解などない」はそれまで司法試験という「決まった答え」があった世界で生きてきた私にとっては非常に困惑するものでした。
目標を掲げ、勝ち負けのつく世界を歩いていく。
勝つために何が必要なのか、何をすれば良いのか、それはその時々その人の状況に於いて全く違います。
司法試験は人の作ったものですから答えがあり、予備校にはマニュアル化された教材があります。
先生の言われたとおり頑張れば大抵合格できます。
しかし、テニスは違います。
ある程度は共通項をマニュアル化できても体のコントロール、コントロールできない自然、環境すら相手にしなくてはなりません。
今の流れを読む感性、臨機応変に対応する修正力、判断し決めていく決断力なんていう説明のつかない、形では教えられないものが勝負の中では大切なことだと気づいたのです。
例えば4オールの30オールから格上の選手に勝つことのできるたった一つのワンチャンスが来たときに、そもそもそのポイントがワンチャンスだと気付くこと(感性)、そのワンチャンスにかけるために今までのやり方も含めそれ以外の選択支をも頭に描き(修正)、その一球、そのワンプレーにかける(決断)ことができる選手でなければ本物選手にはなれないと気付いたのです。
私は2002年夏に海外に修行の旅に出ることを決めました。
日本だけでなくトップジュニア、トップ選手の彼らが感じていることはなんなのかを知らなくてはコーチとして、テニス選手を育てることは無理だと思ったのです。
つづく・・・。
ロングウッドテニスクラブには私の師匠の大島伸洋氏がいて、そこでまずコーチの基本と心構えを学ぼうと思ったのです。
ちなみにそのときにお世話になったロングウッドスポーツの川本社長(現 相談役)には今も引き続きお世話になっております。
大島氏、川本氏このお2人とも感謝しても感謝しきれない先輩のお2人です。
名古屋で私は一般スクールのコーチ、ジュニア選手のコーチ、名古屋高校トレーナー、愛工大名電野球部(イチロー、工藤の出身校)のトレーナーをやらせていただき様々な経験をさせていただきました。
このとき大島氏のところには現在活躍中の井上雅(現 椙山女子)が小学5年生でいたり、名古屋高校には成瀬(現在選手として活躍中)などがいて本当に色々勉強になりました。
このときに私が学んだことは数え切れませんが、その中でも3つ挙げると、
①「選手を育てられるコーチは愛情深く、技術と経験が必要であり、必要なときに必要な物が取り出せる引き出しがなくてはならない」ということ。
また、②「選手が小学生など小さい頃は親御さんの熱意が選手を育てる」ということ。
③「勝負の世界には必ずしも決まった正解などない」ということ。
この3つでした。
そのなかでも②の「選手が小学生など小さい頃は親御さんの熱意が選手を育てる」は、いままで運動能力ばかり気にしていた私にとって衝撃でした。
選手が小さい頃は親御さんが喜ぶように頑張る、ただし自立するタイミングが狂うと大変なことになるという諸刃の剣であると言うこと。
この気付きはこれからも私が選手を育てる(現在は休止中ですが)上で最も大切な育成方針の一つであります。
③「勝負の世界には必ずしも決まった正解などない」はそれまで司法試験という「決まった答え」があった世界で生きてきた私にとっては非常に困惑するものでした。
目標を掲げ、勝ち負けのつく世界を歩いていく。
勝つために何が必要なのか、何をすれば良いのか、それはその時々その人の状況に於いて全く違います。
司法試験は人の作ったものですから答えがあり、予備校にはマニュアル化された教材があります。
先生の言われたとおり頑張れば大抵合格できます。
しかし、テニスは違います。
ある程度は共通項をマニュアル化できても体のコントロール、コントロールできない自然、環境すら相手にしなくてはなりません。
今の流れを読む感性、臨機応変に対応する修正力、判断し決めていく決断力なんていう説明のつかない、形では教えられないものが勝負の中では大切なことだと気づいたのです。
例えば4オールの30オールから格上の選手に勝つことのできるたった一つのワンチャンスが来たときに、そもそもそのポイントがワンチャンスだと気付くこと(感性)、そのワンチャンスにかけるために今までのやり方も含めそれ以外の選択支をも頭に描き(修正)、その一球、そのワンプレーにかける(決断)ことができる選手でなければ本物選手にはなれないと気付いたのです。
私は2002年夏に海外に修行の旅に出ることを決めました。
日本だけでなくトップジュニア、トップ選手の彼らが感じていることはなんなのかを知らなくてはコーチとして、テニス選手を育てることは無理だと思ったのです。
つづく・・・。
2009年10月07日
なんでウインブルドン その1
この1ヶ月ほど道なき道を探していました。
ウインブルドンのチャンピオンなんて俺には・・・と。
でもやっぱり進むべき道は20年後のウインブルドンのチャンピオンでした。
「そんなん知ったこっちゃねえ!」といわずに聞いてください。
とりあえず長くなりそうなので回数は分けて更新しますね・・・。
私は大学時代インカレインドアでベスト8が最高成績で、プレーヤーとして輝かしい戦績を持つ選手ではありません。
大学を卒業した後もテニスで本当に生活が出来るプロなんてとんでもなく司法試験を受け弁護士を目指していました。
司法試験を受けていたといっても不良司法試験生で、勉強もせずにパチンコ屋に逃げ込んでいることも多く、将来を悩めるような余裕なんかなくてもなんとなく生きてるのか死んでるのかわからない状態でした。
そんな中どうしてもテニスがしたい衝動にいつも突き動かされていました。
たまたま受かった択一試験(2次試験)のあと3日後には毎トーに出ていましたし、練習がしたいがために日吉(大学テニスコートがある場所)の図書館で勉強していました。
ボールペンで素振りを30分もしたこともあります。
そのときは勉強が嫌でテニスに逃げているとずっと思っていました。
でも最後と決めた試験に落ちたとき頭にあるのはテニスのことだけでした。
そのときテニスが本当に好きだと思ったのです。
しかしすぐにテニスに飛びつけなかった。
それは自分の中にあるテニスコーチと言うものイメージと実際にテニスコーチが置かれている現状でした。
慶應を出てコーチになんかになるのかと親に泣かれましたし、友人が一流企業に就職している姿を見て自分がテニスコーチは誇りをもてる仕事なのかと自問自答しました。
それでもテニスの世界に足を踏み入れると決心した決め手は二つありました。
一つは私の師匠である大島伸洋氏の生き様と考え方がかっこ良かった事。
もう一つはどんなに色々考えても、素行が悪かった私が悪い道に進まなかったのも、自身を与えてくれたのも、色んなものを気づかせてくれたのもテニスしかなかったという事実でした。
私は大した選手でもありませんし、格別意志が強い人間ではありません。
ただ他の人との思いを比べる術はありませんが今となっては様々な可能性から他を捨てテニスを選んだことがウインブルドンを目指すと言う意志がぶれない大きな要因となっていると思っています。
このときに学んだことは「捨てなければ本当に欲しいものは手に入らない」と言うことでした。
決心して進むべき道をテニスに決めたのは2001年の夏でした。
そこからテニスの世界を見る修行の旅を始めたのです。
つづく・・・。
ウインブルドンのチャンピオンなんて俺には・・・と。
でもやっぱり進むべき道は20年後のウインブルドンのチャンピオンでした。
「そんなん知ったこっちゃねえ!」といわずに聞いてください。
とりあえず長くなりそうなので回数は分けて更新しますね・・・。
私は大学時代インカレインドアでベスト8が最高成績で、プレーヤーとして輝かしい戦績を持つ選手ではありません。
大学を卒業した後もテニスで本当に生活が出来るプロなんてとんでもなく司法試験を受け弁護士を目指していました。
司法試験を受けていたといっても不良司法試験生で、勉強もせずにパチンコ屋に逃げ込んでいることも多く、将来を悩めるような余裕なんかなくてもなんとなく生きてるのか死んでるのかわからない状態でした。
そんな中どうしてもテニスがしたい衝動にいつも突き動かされていました。
たまたま受かった択一試験(2次試験)のあと3日後には毎トーに出ていましたし、練習がしたいがために日吉(大学テニスコートがある場所)の図書館で勉強していました。
ボールペンで素振りを30分もしたこともあります。
そのときは勉強が嫌でテニスに逃げているとずっと思っていました。
でも最後と決めた試験に落ちたとき頭にあるのはテニスのことだけでした。
そのときテニスが本当に好きだと思ったのです。
しかしすぐにテニスに飛びつけなかった。
それは自分の中にあるテニスコーチと言うものイメージと実際にテニスコーチが置かれている現状でした。
慶應を出てコーチになんかになるのかと親に泣かれましたし、友人が一流企業に就職している姿を見て自分がテニスコーチは誇りをもてる仕事なのかと自問自答しました。
それでもテニスの世界に足を踏み入れると決心した決め手は二つありました。
一つは私の師匠である大島伸洋氏の生き様と考え方がかっこ良かった事。
もう一つはどんなに色々考えても、素行が悪かった私が悪い道に進まなかったのも、自身を与えてくれたのも、色んなものを気づかせてくれたのもテニスしかなかったという事実でした。
私は大した選手でもありませんし、格別意志が強い人間ではありません。
ただ他の人との思いを比べる術はありませんが今となっては様々な可能性から他を捨てテニスを選んだことがウインブルドンを目指すと言う意志がぶれない大きな要因となっていると思っています。
このときに学んだことは「捨てなければ本当に欲しいものは手に入らない」と言うことでした。
決心して進むべき道をテニスに決めたのは2001年の夏でした。
そこからテニスの世界を見る修行の旅を始めたのです。
つづく・・・。